博多電光

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自分のこと

  • 小学n年生のこと。担任の女の先生が非常に性格の悪い人だった (僕自身も覚えている。というか絶対に忘れない)。当時の僕は小学校の机からよく物を落とす生徒として教師陣から目をつけられていた不良学生だったが、それに対してその女教師は僕が机から物を落とすたびにそれを没収し、黒板のチョーク箱の隣に下げたビニール袋に放り入れて晒し者にするという意地の悪い対応をした。こういうことをされると子供はますますグレていくもので、しまいには座ったまま上履きを脱いで放り投げたらそれも没収され、裸足で帰らされた。授業参観の日に見に来た父の言によれば、授業が始まるたびに前の授業の教科書を片付けずに新しい教科書を上に並べるので、そのたびに小さな机から物がぽろぽろと落ちていった。それをいちいち拾って「高橋光輝」と大書された袋に詰める教師を見て、非常に悔しい思いをしたという。父曰く、「勉強だけはできる小生意気な子供に反発して意地悪をするような、器の小さい教師だった。今でも許せない」
  • 僕は4人兄弟の長男だが、実は僕を産む前に母は流産を経験している。母が妊娠中、当時市役所に勤務していた父と母は、選挙活動 (具体的な内容はわからない。公務員の選挙運動は禁止されているはずなのでなにかの手伝いとかではないか) という実入りの良い仕事を進んで行っていた。それが大きな箱を運んだりするなどのハードワークだったようで、母は過度の運動により体調不良を訴え、医師に診てもらったところ流産と言い渡された。長らく子宝に恵まれなかった末の妊娠だったためにショックも大きかったようで、あれから20年以上たった今も父は目先の給与にとらわれて身重の母にハードワークを強いたことを後悔している。
  • 先日亡くなった父方の祖父のこと。祖父は長らく右足と右手に障害を持っていた。この怪我の詳細は父も知らなかったそうだが、祖父が亡くなったのち、祖母を通して父が伝え知った話は右のとおりである。右足の怪我は父が幼いころ、祖父がまだ28歳かそこらの時に拵えたもので、祖父の妹が営んでいた問屋の手伝いで力仕事をしていたところ、トラックの荷台から転落し右足に重傷を負った。本来であれば労災が降りるところだが祖父は妹の処遇を思って労災を申請しなかった。今で言う労災隠しである。そのため良い医者にかかることができず膝蓋骨に後遺症が残り、以来祖父の右膝は曲がらなくなった。右手の怪我は父が大学生の頃、工場で働いていた祖父がプレス機に手を挟まれた事故によるものである。深夜の作業で2、3人しか現場に居合わせていなかったために起きた事故であり、こちらはきっちりと労災が降り、手指がばらばらになるほどのひどい怪我だったそうだが指が動かせる程度には復活したそうだ。しかしそもそも祖父が工場で働き始めたのは無理を言って下宿生活を始めた息子 (僕の父) を養うためだった (と父は考えている) といい、その点で父はやりきれない思いになったという。
  • 父と宗教の出会い。母と出会ったばかりの父は気性が激しく、母に頻繁に暴力を振るっていたという (正直、母の前で父からこの話を聞いた今も信じられない話である。現在の父は温厚で稀に母と口角泡を飛ばし合うことはあっても暴力を振るうなどとても考えられない)。一方当時の父は比較的教養人であり、世界の宗教についても一通り修めていた (そういう家に生まれたことも影響しているのだろう。父は幼い頃から信心深い祖父と祖母に連れられて霊山神山を巡っていた) が、新興宗教の類には眉をひそめるような人間だった。読書家でもあった父は当時書評欄や書店ランキングで絶賛されていたある新興宗教の本を (しぶしぶ) 手に取り、そこで大きな感銘を受け、そのまま10冊以上を読破したのちその新興宗教に入信した。その後しばらく団体内で活動した父は、母にも入信を勧めることを決心。勇気を出して「入信しないか」と切り出したところ二つ返事で「いいよ」と返されたという。父は母からの力強い信頼と捉えて喜んだが事実はその逆であり、暴力を振るう父に愛想を尽かし「これが最後のチャンスだと思って付いていこう。これでダメだったらもう付いていけそうにない」と思っての「いいよ」だった⋯⋯という話を後に団体の女性職員を介して父は知る。
  • 小学1年生の時、右目に大きな怪我をしたらしい。父とともに外に遊びに出たとき (当時妹と弟が生まれていたはずである)、前を見ずに走っていた僕はポストの角に激突、鋭利な部分で瞼が大きく切れて目から大量の血が流れ出た。瞼が開いていたら、あるいは少しでも位置がずれていたら失明もありえた大怪我だったという。僕自身は全く覚えていないが、僕の右目が弱い外斜視なのもこれが影響してるのかもしれない。