さる9月9日、母方の祖母が他界した。
穏やかな往生だった、と聞いている。かねてより病状の芳しくなかった祖母は市の療養所で長いあいだ治療を受けていたが、9月の初めごろから体調が急変、幽明の境を彷徨った。危篤の報を受けた母は直ちに実家に戻り、祖母を見舞った。一時は持ち直したものの、結局は看病の甲斐なく、9月9日の未明、祖母は2人の娘に見守られながら息を引き取った。享年81歳。
僕にとっては、人生で初めて経験した近しい親族の死だった。
盆に実家に帰った時に祖母を見舞ったばかりだった。その時の祖母はたどたどしくも会話ができ、食事に同席することもできた。ふくよかになった孫の姿を見て朗らかに笑っても見せた。が、祖母は傍目に見ても明らかに衰弱している様子だった。骨ばった手からは死相が透けて見えるようだった。病室を退去するとき、これが今生の別れかもしれないと思って祖母の手を握った。だからと言ってはなんだが、僕は祖母の死に関して思い残すことはなかった。祖母の凶報に接した際にも、どこか冷静でいられた。
祖母が息を引き取ったとき、僕はサークルの合宿で一宮に逗留していた。間が悪く連絡手段を喪失していたこともあって、僕がその訃報を受け取ったのは9日の夜になってからだった。父母と相談の上、翌晩に合宿を切り上げて葬儀と告別式に出席することになった。
ひとり帰路についた夜の10時半、僕以外に乗客のいない外房線の電車の中で、僕はおそらく初めて死について本気で考えた。明かりの少ない真っ黒な車窓と、親しかった肉親が失われたという事実は、これまでずっと目を逸らしてきた死という現実を、今まで接してきたどんな人物の死よりもリアルに突きつけてきた。
臨終の瞬間、祖母は何を考えていたのだろうか? 祖母以外の人間がそれを知ることは、絶対にできない。観測できないなら、存在しないのと一緒だ。それなら一体、なんの意味がある?
それまでに経験した記憶も感情も、死という圧倒的な一瞬によって強制的に断ち切られる。酒に酔って正体を無くしたり、寝ぼけて上の空になるのとは根本的に違う。酒に酔った人間は「今の自分は正常じゃない」と認識することができる。少なくともその余地がある。だが死はそうではない。「おらは死んじまった」などと、死を俯瞰するメタな視点を持った自分自身が存在しない。「存在しない」が存在するのではなく、「存在しない」も存在しない。虚無ではない。虚空ではない。まるで事象の地平面のように、僕の世界は死より手前までしか存在しない。宇宙の外側が真空なのではなく空間そのものが存在しないように、精神世界の観測は生と死に区切られた有限区間の中でしか成立しない。そんな絶対のボーダーライン、超えられないはずの彼我の境界面を、死はたやすく突き抜けていく。駅のホームで少し体重を傾けるだけで超えていく。それだけではない。日常生活においてすら、僕らの生命は完全に僕らの手中にあるわけじゃない。人間の命は常に誰かの手に握られている。飛行機の操縦士に。エレベーター技師に。天災に。人災に。誰かの悪意に。
怖かった。22歳の最後の夜、僕は本気で死を恐れていた。
死とはなんだ。死んだら僕の意識はどこへ行く。死んだら何もかもなくなるなら、それまでの人生になんの意味がある。今この瞬間、意識するいとまもなく刹那に僕の脳が吹き飛んだら、僕の主観はどうなるのか。その時未来は存在するのか。すでに通過し克服したと思っていた数多のドグマが僕を責め立てる。
死を連続する意識の終端と捉えるなら、死は眠りに落ちる瞬間と何も変わらない。僕らは毎夜々々死んでいる。そんなことはもちろん知っている。だったらどうして僕はこんなに動揺しているのか。眠りに落ちたあとの人生が存在しないことに、どうして震え上がるほどの恐怖を抱いているのか。それは純粋に本能ゆえか、それとも⋯⋯。
外房線のロングシートで揺られながら、僕はこれまでの人生で感じたことのない孤独と不安で気が狂いそうだった。科学に縋った弱い現代人は、宗教という心のシェルターから永遠に追放される。死への恐怖は、合理化し続ける社会が残した、人類への最後の呪いだ。
仮にジャネーの法則を信じるならば、僕は既に人生の半分以上を体感で過ごしたことになる。だけど足りない。僕はまだ全然生き足りない。こんな僕がもし天寿を全うしたとしても、死に臨み、「もう十分生きた。もう飽きてしまった」と本気で思えるのか、相当に疑わしい。
翌朝、黒いスーツに着替え、新幹線で神戸に向かい、親族と合流した。この日は奇しくも僕の誕生日だった。葬儀、告別式、読経、献花、出棺、火葬、骨上げ、繰り上げ法要、何から何まで初めてのことばかりで、ちゃんと祖母を見送ってあげられたか自信がなかった。僕は死化粧をした祖母の顔を直視することができなかった。棺に花を添えるとき、皆がそうするように祖母の顔を撫でるのが怖かった。骨上げのとき、ひび割れた肩甲骨を拾う箸が震えた。
告別式で、喪主である祖父が挨拶を述べた。20代で結婚し、苦楽を共にし、人生を分かち合った二人が、艱難辛苦を乗り越え、ついに添い遂げた瞬間だった。常に飄々とし、芸術と神戸を愛し、そして何よりも祖母を愛していた祖父の、耳慣れない嗄れ声を、僕はその時初めて聞いた。
「ついに、この日がやって参りました。妻との思い出は、思い出せば、限りがありません。ですが、それを語ることは、もう、できません。さようなら。さようなら。」
祖父が口にした、およそ挨拶らしからぬこの最後の別れの言葉が、今もショッキングに僕の耳にリフレインしている。きっと一生、それこそ、この身がああして焼かれるまで忘れられないだろう。
人事は棺を蓋いて定まる。
いつかこの長い昼が閉じ、僕の棺が永遠の闇に覆われるとき、はたして僕の人事は平穏に定まっているだろうか。祖母の霊柩が閉じられたとき、そんなことを考えていた。
僕は、ついに祖母の遺体に触れることができなかった。
人生を有意義に生きることは難しい。そもそも意義なんてないかもしれない。それでも前を向いて生きよう、なんて、今の僕には言えない。ただ、生きている僕らには容赦なく朝がやってくる。この世界には大切なものが多すぎる。僕はまだ死ねない。死にたくない。たとえ臨終の時まであと半分しか残されていなくても、たとえ意味はなくても、生きることをやめることはできない。宇宙の全てが決定論に支配されていたとしても、現在という時間的特異点に存在する僕の思惟だけは、決して泡沫じゃない。そう信じて今日を生きた。明日も生きるだろう。死ぬまでそんな調子かもしれない。
最後に。
祖母の訃報に際し、忌引などでご迷惑をかけた皆様、慰めの言葉をかけてくださった皆様に深く感謝申し上げます。祖母は浄土真宗に帰依していたため忌中・喪中はありませんが、個人的心情により四十九日の間は喪に服し、慶事・祭事の類はお断りさせていただこうと思います。よろしくお願いします。